総延長32キロ。二ヶ領用水は、川崎市のほぼ全域を流れる、神奈川県下でもっとも古い人工用水です。二ヶ領とは、この用水が江戸時代、川崎領と稲毛領にまたがっていたことに由来します。 徳川家康から治水と新田開発を命じられて、代官小泉治太夫が用水の建設を始めたのは、1597年(慶長2年)のことでした。
工事は困難を極め、多数の農民たちが動員されました。工事の志気を高めるため女性も労役に参加させたことから、この用水を「女堀」とも呼んでいいます。流路の決定に当たっては、できるだけ自然条件に逆らわず、古い流路や蛇行の跡を利用し、夜になるとかがり火をたいて用水の高低を測るなど多くの苦心がはらわれました。こうして、実に14年という長い年月を経て1611年(慶長16年)の完成により、米の収穫量は飛躍的に伸びました。
その後、100年あまり経た頃には、至る所で欠損し、かなり荒廃した状況になりましたが、「川崎宿中興の祖」といわれた田中休愚によって本格的改良工事が行われ、死に瀕していた用水をよみがえらせました。
明治以後は、二ヶ領用水から取水する横浜水道が開設(1973年、明治8年)されたり、工業用水として利用されました。それ以後も、1941年(昭和16年)の円筒分水の完成など、江戸時代から現代に至るまで、農民たちは川崎の農業のため二ヶ領用水を守り続けてきたのです。