津久井道は、登戸から西へ今の世田谷町田線とほぼ同じように生田・柿生・鶴川に向かい、さらにその先は鶴見川の上流に沿って橋本から津久井方面に至る道です。この道を東に進むと多摩川を渡り、世田谷を通り、三軒茶屋で大山街道と合流して赤坂御問まで続きます。多摩川から西の地域では「江戸道」と呼んでいたようです。
津久井道の往来が頻繁になったのは、津久井・愛甲地方の絹がこの道を経由して直接江戸へ送られるようになった頃、江戸時代も末になってからのことで、文化年間、明治に変わる数十年前のことでした。
以後、この道は江戸へ絹を送る「シルクロード」として急速に賑わい始めたのです。同時に黒川炭などの特産物も目立って多く運ばれるようになりました。
人々の生活、商人の活発な活動を通じて独特の役割を果たすようになった商業路だったのです。しかし、幕末の安政の開港にともない、絹が横浜に運ばれるようになると、江戸向けの物資も減り、津久井道の様子も変わっていきます。