江戸虎ノ門を起点として三田・馬込を通り、丸子で多摩川を渡り、佐江戸・瀬谷・用田を経て、さらに相模川を越え、平塚の中原で東海道につながるこの道は、「相州街道」「お酢街道」「江戸間道」などと呼ばれていた。ずっと後、小杉あたりでは下肥を積んだ荷車が頻繁に往来したので「こやし街道」などともよばれていました。
徳川家康が江戸に入った1590(天正18年)には、まだ東海道は整備されておらず、家康は平塚からほぼ直線で江戸に向かうこの道を通ったのです。二代将軍秀忠が中原御殿と同じように小杉に御殿を建てたのは1608年(慶長13年)。家康、秀忠、家光の三代にわたる将軍が鷹狩りなどの際、この御殿で休息し、さらに街道を通る西国の大名なども利用していたようです。
やがて東海道が整備されると、大名行列などの多くがそちらを通るようになり、中原街道は脇往還となり、以前の賑わいを失いました。しかし、その後も沿線の物資や農産物の輸送などに欠かせない重要な道として、人々の生活に深い関わりを持ち続けてきました。