江戸赤坂御門を起点として多摩川を渡り、二子・溝口を経て多摩丘陵をあがっていくのが大山街道で、さらに厚木・伊勢原・秦野を経て関所のあった矢倉沢を過ぎ、足柄峠を越えます。東海道と甲州街道のあいだを江戸に向かう脇往還として、「厚木街道」あるいは「矢倉沢往還」とも呼ばれてきました。この道は五穀豊穣、商売繁盛の神様として、広く江戸庶民の信仰を集めた阿夫利神社・大山祭りの道として知られ、お参りのための「大山講」が盛んにつくられ、夏には金剛杖などを手にした人々が、賑やかに街道を過ぎて行ったことでしょう。
物資を輸送する商業ルートとしての役割も重要でした。溝口・二子の宿が定められたのは、 寛文9(1669)年。通行人や物資の量が増えたのは、江戸後期のことです。駿河の茶や真綿、伊豆の椎茸、干し魚などが馬の背で運ばれ、また 秦野地方の煙草づくりも盛んになって、これらを扱う商人たちで宿は活気を呈していました。
今、二子・溝口・ねもじり坂にかけて旧街道を探訪すると、蔵造りの商家や急な坂道などに昔の面影をしのぶことができます。